難病克服の奇跡
1991年、私が19歳の頃、看護師を目指して看護学校に入学し1年位経った頃かな。
学校の定期健康診断で要再検査〜精密検査になった。
私は自分の事ながら何がなんだか把握出来ないまま、精密検査のために入院。
それでもまだ、他人事のように驚きもしない私がいた。
その頃の私は田舎から関東の学校&寮生活という大変化にとても疲れ切っていた。
まず大変だったのが標準語が話せなくて、
頭で考えてから言葉にするので、スムーズなコミュニケーションができず、
しまいに話すのが嫌になり、自分の殻に閉じこもるようになった。
今のようにスマホなんてない時代なので、公衆電話で母親に電話をするのだけれど、
それが余計悲しくなってしまう。
もうひとつに、寮生活で規則正しい生活になったら、努力なしで体重が減った。
それまでは痩せたいと思っていながらもダイエットなんてしたこともなかったので、
自分でもビックリ!そしてそれが、唯一の楽しさになった。
鬱々していた日々の中に楽しさを見つけ、少し明るくなった私だが、
次第にエスカレートしてしまい、あげくの果てに拒食症になってしまった。
そう、
私は拒食して体重が1年で15Kg減ったことを少なからず、マズいと思っていたので、
健診で精密検査になったのも、きっと拒食のせいで体がおかしくなってしまったのかな?と
驚かなかったということだ。
精密検査の結果は特発性血小板減少性紫斑病という特定疾患に指定されている難病と診断さた。
特発性血小板減少性紫斑病とは、明らかな原因がなく、また基礎疾患がないにもかかわらず、
ある日突然、血小板が減少してしまう病気で、その結果、皮膚や粘膜等の目に見えるところに、
出血症状、紫斑(しはん)、青アザがみられる。
難病なので原因はわかってないが、血小板に対する自己抗体、つまり免疫が、血小板を敵だと誤認して、破壊してしまうと考えられている。
私もぶつけた覚えがない肘や膝や太ももに青アザ、そして目の下に細かい紫斑があった。
幼い頃から健康優良児で病気一つしたことなく成長してきたので、
初めての入院治療にやっと事の重大さを実感したのだった。
難病と診断され入院生活が始まった。当初、1ヶ月間の予定だったが、結果は2ヶ月間に及んだ。
入院してどんな治療を行ったのかというと、朝昼夕と大量のステロイド剤を服用し、ほぼ毎日採血というもの。薬を飲むだけなら入院しなくてもいいじゃないかと思うのだが、大量のステロイド剤を服用するため、副作用も強く、免疫力低下や精神不安定、ムーンフェイスなどがあるため、入院が必要というものだった。
小さなピンク色の錠剤を飲み出して1ヶ月もしないうちにどんどん顔が膨らんできた。
今、当時の事を思い出すだけでも「辛かったな〜」と涙が出てきそうになる。
19歳の女の子が巨大なムーンフェイスになるのは耐え難いものだった。
ここから鏡は世の中で最も嫌いな物になり、その鏡に映る自分の姿も最も嫌いになった。
これ以上太ったらムーンフェイスがもっと酷くなると思い込んでしまった私は、
それまで以上に拒食になり、心身共に究極状態でやっと生きてるというか、生かされているという感じだった。
愚痴を聴いてもらえる家族もいないし、友人もいない
私が入院している病棟にも看護学校の同期生が実習に来る
その姿を見ると、焦りと悔しさ、そして悲しみが込み上げてきて、涙が止まらない。
泣いているのを誰にも知られたくないので、ベットの上で布団をかぶって泣くしかなかった。
そんな私を心配して励ましてくれる病棟ナースの笑顔に強烈に嫌悪感を感じてしまう。
笑顔は時には受取れないこともあることを知ったのだった。
毎日泣いては過呼吸の繰り返しに、主治医が安定剤&睡眠剤をだした。
そに日を機会に今度は泣く娘から眠る娘になった。
一日中眠り続ける毎日。各食事毎に起こされ薬を飲み、あとはまた眠る異常な生活。
自分でも朝も夜も分からない。ふわふわと非現実的な感じだった。
2ヶ月が過ぎ、期待してたほどの効果は出なかったが、何とか生活には支障のない状態との事で、一旦、退院となった。
もう気力も体力もない私は周りの同級生が同情して話しかけてきても、応えるのもおっくう、笑うことも出来ない状態だった。
当然、以前よりもまして同級生との距離はあき、1人でいる事が多くなった。そういえばその頃流行っていたノルウェーの森を読んでいた。
次に勧められた治療法は脾臓摘出だった。
一応ナースの卵であった私は西洋医学が全てだと思っていたのと、
1日も早く病気から決別したいという藁をも掴む思いだったので、
躊躇することもなく、手術を受けることにした。
たぶん躊躇しなかったのは、自分を傷つけることをなんとも思わない自分の心理状態があった。あわよくば、手術中に死んでしまってもいいとさえ思っていた。
それだけ生きるのがつらかった。
だからなのか、手術に対して全く不安や心配が湧いてこなかった・・・・その瞬間までは・・・
ストレッチャーで手術室に運ばれ、手術台に移ったその瞬間だった・・・
急に心臓がドキドキしてきて、涙がスーッと頬を伝わっていきた。
私って、我慢強いというか、ええかっこしいなんでしょうね、
本当は「こわいよー、イヤだよー」って泣き叫びたかったのに、奥歯を噛み締めて、体が震えるのを止めようとしてる。
今、考えると「なんてこった〜」って感じ!
そして、ふと思い出したのが母親が言った言葉だった
母が私をお産する際、母は祖母から陣痛が辛くても声を出して弱音を吐くのはハシタナイと教えられたらしく、我慢に我慢をして気絶しそうになり、結果的には力が入らなくなって、吸引分娩になり、そのせいで私は頭が一つ分とんがって生まれ、父親がとても心配したという話。
この変な我慢強さを引き継いでしまったのかもしれない。と今思ったりする。
手術は無事に終わり、血小板値がグンと上がった!
痛い思いをした甲斐があったと喜んだもつかの間、どんどん減少していき結局効果がなかった。
こんなんだったら、手術中に死なせてくれたらよかったらじゃない!と心が折れてしまった。
もう出来る治療もなく、女性ホルモン抑制剤を試みた。
これが期待以上に効果があり、ステロイド剤を少しづつ減らせた。
こんな生活を4、5年続け、その間に看護学校を卒業し、なんとか国家試験に合格し、看護師にはなれたものの、看護師という職業に夢も希望もなく、私には全く晴れた青空は見えなかった。
ずっと曇った感覚で、さまよい続けていた。
その頃には血小板はホルモン剤で何とか日常生活が遅れるくらいの値をキープしていたが、今度は拒食症から過食症になり、苦しい日々を送っていた。
それまでは、食べなくても平気で、食べたいとも思わなかったのに、
ある日、ガマンの糸が切れたかのように、食べまくる毎日となった。
仕事が終わって、スーパーに寄って夕食を買う。初めは普通の量を食べようとするのだが、
もうすでに、普通が分からな、腹八分の感覚がない、1口、2口、3口食べたら、もう止まらない。200%胃に入れるまで終われない。
そして、もう入らない所まで詰め込んだら、トイレに行って吐き出す。
食べている時は何も考えない、もう獣のようにむしゃぶる。
その後のトイレで吐き出している時に、理性が戻ってくる。そして、自分が汚い、罪深い存在のように思え、無性にどうしようもない自殺願望が生じてくる。
こんな汚らしい人間は生きていてもしょうがない。
世界には飢えて死んでいく人がいるのに、私は何をしているんだ。許されるわけがない。
食べ疲れ、吐き疲れ、泣き崩れてトイレで寝てしまうことも多々あった。
その当時の職場の上司、先輩、同僚は私をどんな風に見ていたのだろう。
職場では気丈に振舞っていたので、気付かれてはいないだろうと思っていたが、今となっては分からない。見栄っ張りの私は誰にも相談出来なかった。しっかりした私と思われたかった。
摂食障害という病気自体あまり知名度がなかった時代、私もどうしていいかわからず、
大学病院の精神科を受診してみた。その当時は心療内科はまだあまりなくて、精神科に通院したものの、食べた物をノートに書いてくるという宿題と安定剤を処方されただけで、結局半年も通わずしてやめてしまった。
そして、その頃に心理カウンセリングという言葉を知った。
看護雑誌の最後のページにヘルスカウンセリング協会(現ヘルスカウンセリング学会)のヘルスカウンセラー養成講座の募集案内が掲載されていた。
何も知らない世界だったが、気になって仕方がなかった。気付いたら養成講座に申し込んでいた。何か新しい扉を開ける感じで、不安と期待が入り交じった感覚だった。
初めてカウンセリングというものにふれ、代表の宗像先生(筑波大学教授)の話を聴いた時にとても気持ちが軽くなったあの感覚を今でも覚えている。
宗像先生が全ての病いには意味がある。苦しむのは成長しようとしている証。という言葉に、私の今の病気も摂食障害も無意味じゃないんだ。その人にとっての大切な意味があるんだ。と思えた瞬間に私の曇った世界に一筋の光が射し込んだ!
この日から自分の内面との向き合いが始まった。
カウンセリング養成講座&勉強会と熱心に参加し、通信制の大学で心理学も学んだ。
そこで共に学ぶ仲間も大小あれど様々な問題を抱えていたので、共感し合えた。
やっと私は人に心を開く事が少しづつ出来るようになっていった。
自分の居場所があると思えたことは本当に嬉しくて幸せだった。
カウンセリングを学ぶ中でたくさんのトラウマに気づいた
母親との関係性
父親との関係性
幼い時の寂しさ、悲しさ、悔しさ、怖さ
中学時代の同級生との出来事
看護学生の時の病気のこと
たくさん思い出し、癒され、解放されていった。
それはまるで玉ねぎの皮を1枚1枚はがしていく作業のようで、
また、絡んでいる鎖が解けていくような感覚だった。
自分の内面と向き合うようになり、今までどれだけ自分を偽って生きてきたのかを知った。
頑張るわたし
我慢するわたし
弱音を吐かないわたし
わがまま言わないわたし
相手を思いやるわたし
優しいわたし
しっかり者のわたし
これは私が知っている私の姿。でも、これは努力で作った私の姿だった。
それに自分でも気づかずに生きてきた。
そうすることで自分を守ろうとしたのだろう。
自分に生きてていいんだと許可出来なかったのかも知れない。
私は幼い時から、生きるのが辛かった。父親の事業の失敗で夜逃げをし、モーテル暮らし。父親が詐欺師だとムレギヌをきせられ、町中から白い目で見られる。などなど(まだ両親が健在なので言えないこともあるが)、本当に落ち着いた生活というものを味わった事がなかった。
思春期になっても母親に心配かけたら、見捨てられるかも。母の苦労がこれ以上増えたら母が死んでしまうかも。なんて思い、グレることも出来ず、甘えることも出来ず、心配かけないようにするのが私の生きる術だった。そして、母が女は手に職をつけないと私のように苦労すると何度も言うので、看護婦になることを決めた。
私が生まれてこなければ、母は父と離婚をし自由に生きれたのかもしれないと思いこんだ私は、いつからか、自分の存在価値を見失っていた。
だから看護婦の自分、我慢強い自分、頑張り屋の自分、優しい自分というように条件付きでなければ自分を認めることができなくなってしまった。
そして、親元を離れた途端に病気
やっぱり生きることは辛いこと、苦しいことだと痛感させられた。早く人生を終えたくて仕方がなかった。
でも、違った!
病気を通して自分を愛することの重要さに気付いて欲しいと願う本来の私自身がいたのだと思う。
あの両親の元に生まれ、色々な経験を通して、私自身の人生の大切な何かを教えたかったのだろう。
このことに気づくキッカケとなったのが、越智啓子先生の「生命の子守唄」という本に出会ったことだった。当時私は心療内科で心理カウンセラーとして鬱やパニック、神経症、心身症の方々のカウンセリングをさせて頂いていた。
だいぶ自分の内側に向き合うことができ、少しずつ生きることを楽しみ始めていた。ただ、無条件に自分を愛することはまだ難しく、過食症には悩まされていた。
越智啓子先生は精神科医でありながら、幼い時から持つサイキックな能力を使い、抗精神薬は処方せず、過去生療法、クリスタルヒーリング、ボイスヒーリングそしてアロマヒーリングで治療をしている先生だった。
今では、色々な方法を使って治療をしている先生は珍しくはないが、20年前は超~珍しく、私は半信半疑ながらも心は嬉しさや期待感で一杯だった。
今のようにインターネットで検索できるような環境ではなかったので、その本から先生のクリニックに連絡し、ヒーリングセミナーを開催している事を知り、全てのヒーリングセミナーに参加した。
ヒーリングとカウンセリング何が違うんだろう?
相手の話を共感し、その方の中にある答えを探していくということに関しては同じだが、
過去生やその方のエネルギーにアプローチしていく所が違っていた。
その分、カウンセリング以上に深い気づきと癒しを得ることが出来た。
啓子先生のヒーリングセミナーで印象的だったのは「生まれてきてくれてありがとう」と自分に言えるようになったことだ。そして、自分の魂の成長のチャレンジとして今の両親を選んで生まれてきたことに感謝できたことだ。
また、アロマヒーリングセミナーを受けた時のことも忘れられない。
初めて精油というものに触れた。そして何気なく手にした精油を嗅いだ瞬間に涙があふれだした。私の頭はどうしたの!と驚いている。しかし、ハートは嬉しくて泣いている不思議な感覚だった。この不思議な感覚が原点となり、もっと知りたいという強い思いに導かれるかのようにアロマテラピーにハマっていった。その時はまさかアロマテラピストの道を歩むようになるとは夢にも思わなかった。
このセミナーを受けてから、鏡を見て笑顔を浮かべられるようになった。「私は私、よくがんばって生きてきてくれたね、ありがとう」と鏡の前の自分に言えるようになった。
ヒーリングに味をしめた私は色々なヒーリングセミナーに参加するようになった。クリスタルヒーリング、アロマヒーリング、ボイスヒーリング、アートヒーリング、エンジェルリーディング、チャネリングなどなど貪るように・・・・
その中でも印象的なのがイメージ療法だ。
ユング系のイメージ療法の勉強会に参加していた時期があった。
自分の難病についてイメージしてみることになった時のこと。
私の難病をイメージしていくと、血小板をパクパクモンスターがパクパクと食べていく姿がイメージされた。その頃ゲームセンターにあったパクパクと何かを食べていくキャラクターで、全く怖くはなく、黄色と緑色ぽい丸っぽい感じの存在だった。
私はなんとも不思議なイメージにビックリだったが、血小板を食べるのにハッとさせられた。
次にそのパクパクモンスターの立場になり感じてみることになった。
パクパクと血小板を食べているうちに「お前はダメだ、お前はダメだ」と繰り返し言っている自分にこれまた、ビックリさせられた。
そして、次の瞬間に「あー、コレなんだ〜。そっか〜」と腑に堕ちた。
それは、私の中に根強くある信念・・・自分が生まれてきたことへの罪悪感。
これは自分だけではなく、両親からの影響かもしれない。
いくら頭ではそんなことはないと言い聞かせても、強い信念にはかなわなかった。
そして、私は私のために私を守ると決めた。
「もう、私を責め、私を傷つけ、私を殺そうとするのはやめる」と心に誓った。
ここから、劇的に私の病気はよくなっていった。
まず、難病は直ぐに完治した。
過食症は中毒のようになっていたので、直ぐにはなくならなかったが、過食をしても自分を責めることがなくなった。
では、どうやって過食をやめられたのかというと、
精神的には本当に楽になり、人生を楽しめるようになってきた。毎日が充実していて死ななくてよかったと本気で思えるようになった。
過食症についても母親との関係性や感情の抑圧などに気づき、そして解放されていった。
しかし、心が癒されても過食症からなかなか抜け出すことができなかった。
なぜなら、過食行為が中毒のように習慣化されてしまっていたからだ。
だから喫煙やアルコール、またはコーヒーやお菓子中毒の人の気持ちが分かる。気持ちというよりは一種の習慣、癖であり。癖を変えるのって結構エネルギーがいる。
それで、この癖となってしまった過食症に対してもなんとかやめたいと思い、カウンセリングを受けたり、勉強会に参加したりと色々やって、出た結論は・・・
ありのままの自分を受け入れるということだった。
過食を悪いものとして捉えず、過食にどれだけ私は慰められ、助けられてきたのだろうか。と気付いた。そして、過食をしても責めずに、自分を尊重した。
過食をしている自分も自分、していない時の自分も自分。いいんじゃない。と思えるようになったことが、気づいたら過食をしなくなっていた。
もちろん、そこまで行くには段階はあったし、時間もかかった。
こんな感じの10年間の闘病生活。
難病にも摂食障害も感慨深い。
全ての経験に感謝とがんばって生きてきてくれた私を尊敬さえする。
以前はただただ苦しい、辛いともがき泣いてばかりだった私が、今はしっかりと自分と向き合い問題を解決している。
人、環境、物事全てには良い悪いはなく、その人の価値観、好みでそれを選択している。
コーヒーが好きか紅茶が好きかみたいなもの。そして、自分の好みを相手に強要して、好みが違うと怒ったり、悲しんだり。
以前は自分の好みを押し殺して相手に合わせて、怒り悲しみで過食していた私が、今は、色んな人がいて、色んなことがあって、全てオッケーで、この世界は面白い!と思えるようになっている。
がんばる私
思いやりのある私
やさしい私
その私も私ですが、それに加えて、
マイペースな私
やりたくないことはやらない私
いい人しない私
クールな私
も、います。
そう、人は多面的。
その時々で対応すればいい。
とても楽ちん!
病気になったのも私の意識(意識と無意識)が関係しているだろうし、
その意識を変えたら、病気は消えた。
みんなに当てはまるとは思っています。
意識だけではどうにもならない病気もある。
だから、私の経験は私のこと。
人それぞれに、人生の経験がある。
それはとっても素敵なこと。
自分の人生の花を咲かせませんか?
そんな思いで、私の経験を書かせていただきました。
必要な方に届くと嬉しいです。
おわり。
最後にみなさまへ
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
とても苦しかった過去ですが、今では私の豊かな人生の糧になっています。誰もが自分の人生を創っていくことができると思います。ですから、みなさまも自分を好きで、自分を大切にした、喜びのある人生を送っていただけることを切に願っております。
小塚友美